昨年末の「村田さん関係3大ニュース2021(1186)」に書きましたように、このネタを継続するつもりはなかったのですが。
・『ひとかけらの夏+2』(SACDハイブリッド)の発売
・『GO POP』と『太陽の季節』の再発
・各種「シティ・ポップ」関連の書籍で、取り上げられた
少し早いですが、今年最後の投稿となりますので、よいお年をお迎えください。
ご健康にお気をつけて。
今までも、この場で何回か書かせていただいている川村康一さん、先にご紹介したセカンドアルバムも再発されていますが、それと別に関係なく、1枚目・2枚目のアルバムを聴いていたら、村田さんのある作品と似ている作品があることにふと気づきました。
最初に書いておきますと、この点も以前別な記事で書いておりますが、似ているといっても、別にどちらがどちらを真似したとか、そういうことを言わんとしているわけではありません。
むしろ、何か、共通の土台というか、バックグラウンドというか、当然に共有されている音楽の風景というか、そういうものがあるのではなかろうか、そういうことを感じている次第です。
まず、川村さんのほうのその曲とは、1枚目のアルバム『HAVE A GOOD TIME』(1989年)の1曲目「サマータイム」という曲です。「バチロク」の曲で、アカペラ、いやいや、この情報だけでも、いかにも村田さんの曲でもありそうです。
続いて村田さんの曲です。アルバム数も多く、探すのはなかなか大変そうです。しかし、理由・根拠ははっきりしませんが、村田さんのどれかのアルバムの最後の曲だと直感しました。そして、21世紀に入ってからのアルバムではない、また6枚目の『GO POP』までならすぐにわかるはずなので、そうではない。そうなると、残りは、7th『太陽の季節』(1989年)、8th『空を泳ぐ日』(1990年)、9th『HELLO AGAIN』(1993年)、10th『evergreen』(1994年)。11th『sweet vibration』(1995年)になり、『HELLO AGAIN』の最後の曲「Dream of Julia」は聴かずとも違うとわかるので、残りの4枚だけを確認すればいい。容易に、『evergreen』収録の「夏を忘れた瞳に」ということがわかりました。これは、スマートフォンで調べたのですが、カセットテープやレコード(ヴァイナル)ではこうすぐにはいかない、すぐに調べられないでしょう。こういう意味では便利になったものです。
興味深いのは、似ている曲とはいえ、一方はアルバムの最初の曲、他方は最後の曲と全く逆の位置で、でも、それぞれ、その位置にうまく「はまって」いるということです。音楽とは不思議なものです
2曲とも、Spotifyでも聴くことができますので、お時間あれば、お試しあれ。聴いていてうれしくなる作品です。
なお、発表された時間的順序からすると、村田さんの作品のほうがあとになります。
「音楽雑誌、音楽業界誌・業界紙などのアルバムレビューや記事(1204」」や「紹介記事の重要さ・大切さ(1216)」で、「村田本」に関連して、村田さんに関連する過去の雑誌等の記事・情報を集めてほしいというような希望を書いてきました。
しかし、言っているだけで、ぼおーっとしていても、何も動きはありません。それはそうでしょう。
そこで、自分でそういう雑誌記事を探してみるのはどうだろうか、と思ったのですが、、、。
まず、どう探していいかがわかりません。
通常、公立図書館の検索では、書籍のタイトルや著者で検索ができます。しかし、雑誌の中の個々の記事のタイトルで検索できることは、ほとんどありません。ましてや、記事のタイトルには名前は出てこないけれども、その記事の中で村田さんが(他のアーティストとともに)取り上げられているというようなケースは多々あると思いますが、それを「検索」で見つけ出すことは不可能です。また、音楽雑誌やそれ以外の雑誌でも「アルバムレビュー」が掲載されることがあります。雑誌ごとに、どの号にどのアルバムの「アルバムレビュー」が掲載されているか、ということも、通常はネット上で検索できる情報としては存在しません。雑誌によっては、12月号(または3月号)に、その年(または年度)の「総目次」が掲載され、その中で、「アルバムレビュー」で取り上げられた具体的なアルバム名が掲載されている場合もたまにありますが、それは、いずれにしても、その号が手許になければ調べることができません。「総目次」的な情報をやっと手許に取り寄せたが、まったく村田さんの情報がない、ということになったら、目も当てられません。
つまりは、実物の雑誌のページをいちいち繰っていかなければ、発見する術がないということになります。実際にはそれ以前の問題で、村田和人の記事があるのかどうかもわからず、やみくもに膨大な雑誌のなかから関連する記事を探さなければならない、ということになります。このデジタルの世の中で、何という、遅れた世界なのでしょうか? もちろん、ふんだんに時間があれば、それもまた楽しいのかもしれませんが、そんなケースはまれでしょう。
しかし、さらに大きな問題があります。雑誌のページを繰ることができればまだましだ、ということ、すなわち、対象となるような音楽雑誌が、公立図書館に残っていない、ということです。村田和人といえば、まずは1980年代前半(1982年)のデビューあたりから探しはじめることになると思いますが、そんな40年も前の日本のポピュラー音楽を対象としているような雑誌を保存しているような公立図書館は、まずありません。そんなスペースはない。それはそうでしょう、でも、何か手段があったのではないでしょうか?
公立図書館は、過去の文献の保存という観点では、先見の明というか、未来を見据えた考えがあまりにもなかったのではないかと思います。あえて非難めいた極端な言い方をすれば「その時点で人気のある本を貸し出していればそれでいい」という考え方が限界だったのかもしれません。例えば、ポピュラー音楽の音楽雑誌であれば、当時、予算がないから、スペースがないから、またいったん購入しだすと長期にわたって購入せねばならないから、と、そもそも購入にひどく消極的だったのではないでしょうか? そして、仮に当時購入していたとしても、スペースがないという理由などで、「後世のための保存」という考えなしに、定められた時期が来たら、廃棄してしまったのではないでしょうか? 確かに、あらゆる雑誌をあらゆる公立図書館で購入し、永久に保管しておくとしたら、すべての公立図書館はパンクしてしまうでしょう。しかし、雑誌を広く網羅的に収集・保存することを目的として、例えば、都道府県単位で、公立図書館ごとに購読も保存も「分担」をしていたら、ある程度は可能だったのではないでしょうか? そうすれば、「相貸」を活用して、比較的容易に(短い待ち時間で)古い雑誌を閲覧することが可能な世の中になっていたのではないでしょうか? それでも無理であれば、都道府県間での分担も手段としてはあり得た。さらに、保管場所の節約という意味では、デジタル化という手段もあったのではないかと思います。そういった、50年先、1000年先を見すえた「情報保存戦略」がまったく存在していなかったのではないでしょうか? そういう戦略があれば、公立図書館で古い音楽雑誌(のみならず、より、雑誌一般)がまったく見つからない、という事態は避けられたのではないかと思います。この点は、あまりに遅きに失してはいますが、各公立図書館や各都道府県において、今からでも今後についてはご検討いただきたいところです。
もしかすると、そういうような音楽雑誌は、すべて、国立国会図書館か音楽の専門の図書館に任せていればそれでいいと考えていたのかもしれません。今でも、そう考えておられるのかもしれません。
しかし、国立国会図書館やそういう専門の図書館は、首都圏や大都市に集中しています。日本全国の誰もがお金も時間もかけずに容易に、しかも何度も行ける場所ではありません。さらに、現在の新型コロナ感染の状況の中、余計にそういう場所には、直接足を運ぶということが難しく、または、ためらわれるようになっています。
それでは、もう遅いのでしょうか? もはや、過去の雑誌について、何も対処する方法はないのでしょうか?
いえ、まだ希望はあります。
今から、国立国会図書館や音楽専門の図書館で、所蔵している過去の音楽雑誌をすべてデジタル化してネット上で公開するのです。これで、日本全国で(いや世界中からでも)、直接足を運ぶことなく、アクセス、閲覧できることになります。
もちろん、同時にOCR(Optical Character Recognition/Reader、光学的文字認識)も行っていただいて、「全文検索」もできるようにするべきだということは、言うまでもありません。
ただ、障害は「著作権」でしょう。デジタル化もできない、デジタル化できてもネットの公開はできない、そういうことかもしれません。しかし、著作権が存続しているとしても、古い雑誌をネット公開しないことにより、誰のどのような利益が保護されるのでしょうか? 実際問題として、国立国会図書館などが、このような雑誌のネット公開をしても、それが、最新号などではなく、例えば、20年以上前(ようするに20世紀)のものであれば、不利益を被る人は誰もいないのではないかと思います。なぜなら、そんなに古い雑誌は、いまや入手できないと思いますから。「ネット公開などされたら売れなくなる」といった、近年「まんが」で非常に深刻になっているような問題は発生しないと考えられます。おそらく、現実に不利益を被るのは著作権者ではなく、そのような古い雑誌を高値で販売しようとする人々だけではないかと思います。
ぜひとも、法改正なども含めて、早期のネット公開をご検討いただきたいところです。
どうぞよろしくお願いいたします。
村田さんだけではなく、このスレでご紹介したことのあるアーティストですと、安部恭弘さん、伊豆田洋之さん、西司さんなどなど、ある時期以降、またはある期間だけ、アルバムなどを自主制作またはそれに近い、要するに大手レコード会社ではない会社から発売する方が多くおられると思います。
自主制作を選んでおられること自体は、いけないなどということはなく、別にいいといえばいいのですが、それにしても、この傾向はなぜなのでしょうか? ベテランになってくると、もう大手などに任せていられない、もっと自由に制作したい、多くの人が関わらなくても(すなわち費用を掛けなくても)制作できる、少数の枚数でも制作できる(逆に言うと、大手だとある程度の枚数が売れるという前提じゃないと制作できないということか?)といった小回りが利く、といったような理由なのでしょうか?
というのは、そういう自主制作等の場合、発売前か発売からあまり時間が経っていない時点で気づけば、入手できるのですが、そうでないと、入手が困難になりやすいということがあるからです。また、配信もされないままになってしまうケースも多いのではないかと思っています。要するに、自主制作等の場合、聴く側は聴くために、より苦労している場合があるということです。典型的には、あとから「ああ、もう入手できない、聴くことができない」というケースが出て来ているということです。もちろん、大手であっても、品切れしてしまう可能性は同じようにあるわけですが。
例えば、村田さんですと、『P-CAN』がその例で、まだ通販は継続されているようですが、配信はされていないようです。
なお、ペット・サウンズ・レコードでまだ購入可能です。
http://www.petsounds.co.jp/ordermurata.html
最後は、結局過去の投稿「P-CANはまだまだ入手可能(1185)」とほとんど同じ内容になってしまい、すみません。
いや、別にそんな騒動は起きていませんが。
先日、再発された『GO POP』と『太陽の季節』はリマスターなのかどうかを調べたときに登場した芽瑠璃堂のページ、そのページをさらに見てみると
2020年の『一本の音楽 ~MOON YEARS~』
2019年の『エヴァーグリーン・ワークス ~永遠に続く輝き』
の2枚のベスト盤についても帯が掲載されています。
ところが、これら2枚はリマスターのはずですが、帯にはリマスターとは記載されていません。中(歌詞カード)を見ないとわからないということでしょうか? 自分で持っていないため、実際のところは、わかりません。
この2枚は、リマスターとして、いろいろと紹介されていますから、パッケージ等まで含むCDのどこかに、リマスターであることがわかる記載があるはずです。
いやいや難しいものです。
とはいえ、以前も書きました通り、自分の耳がリマスターかそうでないかを聴き分けることなど無理だと思いますので、自分に限っていえばリマスターかどうかはあまり差異がないように思います。